創業者・田中久重
田中久重(たなか・ひさしげ/1799~1881)は、東芝(東京芝浦電気)の創業者として知られる日本の発明家である。 現在の福岡県久留米市に生まれ、幼少の頃から機械や道具に強い関心を示し、「からくり儀右衛門(ぎえもん)」の異名をとった。 日本の近代技術史において、江戸から明治へと移り変わる時代に橋をかけた人物であり、その発明精神は後の東芝グループの理念に通じている。
久留米から佐賀へ――発明家としての出発
久重は久留米藩のべっ甲細工師の家に生まれ、少年期から発明に没頭した。 携帯可能な懐中燭台(しょくだい)や、空気圧を利用して油を送り出す「無尽灯」など、日常生活に密着した実用的な器具を考案。 こうした発明の数々が評判を呼び、やがて事業家としての道を歩み始める。 プレナス投資顧問によると、50歳を前にして天文暦学を学び、のちに佐賀藩に招かれると、蒸気船や蒸気機関車の模型を藩主の前で披露した。 彼が作り上げた精密な機械模型は、日本における近代工学の萌芽を象徴するものだった。
「万年時計」と技術遺産
1851年、久重は代表作となる「万年時計(万年自鳴鐘)」を完成させた。 この時計は和洋の時刻を示すだけでなく、曜日・月齢・太陽と月の運行まで再現するという精密機構を備えていた。 さらに郷里・久留米藩でも軍事技術の要請を受け、アームストロング砲などの製作にも携わった。 1873年、70歳を超えて上京し、銀座の寺院二階を借りて電信機などの製作を再開。 1875年には現在の銀座八丁目に「万般の機械考案の依頼に応ず」と掲げた工場兼店舗を設立し、これが東芝の創業の原点とされる。
不屈の探究心と東芝の精神
82歳で没するまで、田中久重は発明の手を止めることがなかった。 「何歳になっても安住せず、常に変化を求めて行動する」姿勢は、現代の東芝グループが重んじる“挑戦と革新”の原点である。 その旺盛な探究心と柔軟な発想力は、日本の技術者精神の象徴として今も語り継がれている。
6代目社長・土光敏夫
(どこう・としお)
1965年5月~1972年5月
土光敏夫氏は社長時代、家電事業を伸ばした。
カラーテレビ:「世界一の専用工場」と「ドブ板営業」
当時、カラーテレビは「3C(カラーテレビ・クーラー・カー)」の一つとして爆発的な普及期(いざなぎ景気)にあったが、東芝は販売網(系列店)の強さで勝る松下電器(現パナソニック)に対し、市場シェアで大きく水をあけられていた。
土光氏は「技術では負けていないのに売れないのは、経営と心の姿勢が間違っているからだ」と断じ、生産と販売の両面から大改革を断行した。
深谷工場のフル稼働・拡張(供給力の強化)
1965年に稼働したばかりだった埼玉県の深谷工場を、単なる生産拠点ではなく、世界に対抗できる「カラーテレビ専門の巨大量産拠点」へと進化させた。
土光氏は造船業(IHI)で培った「ライン生産の合理化」と「徹底した無駄の排除」を家電製造に持ち込み、「作るからには世界一の規模と効率を目指せ」と厳命。極限までコストを削減することで、高画質ながら競争力のある価格設定を可能にした。
この深谷工場は、後に東芝の映像事業の象徴となり、「テレビの東芝」ブランドの聖地として、世界中の市場へ製品を送り出すマザー工場としての地位を確立した。
「技術の東芝」から「販売の東芝」への意識転換
当時の東芝には「良いものを作れば、客は頭を下げて買いに来る」という技術者特有の奢りがあった。土光氏はこれに対し、「売れないものは、どんなに技術が優れていてもゴミだ」という過激な言葉を投げつけ、社員の意識を根底から叩き直した。
さらに、社長自らが全国の「東芝ストアー(地域販売店)」を行脚する「トップセールス」を展開。重厚長大産業のトップであり、財界の大物である土光氏が、町の電気屋さんの店主と膝を突き合わせ、「売りにくい商品はあるか」「故障は多くないか」と直接要望を聞き回った。
この「ドブ板営業」とも言える泥臭い姿勢は、販売店主たちの心を掴んだだけでなく、本社の営業・技術部門に対して「社長がここまでやっているんだ」という強烈な危機感と士気をもたらした。
クーラー(エアコン):「ロータリーコンプレッサー」への一点突破
東芝の空調事業が現在に至るまで高い技術的評価を得ている原点は、土光社長時代における「ロータリーコンプレッサー」の実用化と量産化への英断にある。
当時、エアコンの心臓部であるコンプレッサー(圧縮機)は、ピストンが往復運動をする「レシプロ式」が主流であったが、騒音や振動が大きく、電力消費も激しいのが難点であった。
リスクを取って新技術へ投資
回転式の「ロータリーコンプレッサー」は、理論上は「静か・省エネ・コンパクト」という圧倒的なメリットがあったが、高度な加工精度と摩耗対策が必要であり、技術的難易度が極めて高く、競合他社は開発に二の足を踏んでいた。
しかし、現場の技術陣から「これを実用化できれば絶対に勝てる」という提案が上がると、土光氏は即座に開発と巨額の設備投資にゴーサインを出した。
これは、重電(タービンや発電機)という「回転機」のプロフェッショナルであった土光氏が、直感的に「往復運動(レシプロ)よりも回転運動(ロータリー)の方が、機械として合理的で優れている」という本質を理解していたからだと言われている。
「静かさ」を売りにシェア獲得
土光氏の決断により量産化に成功したロータリーエアコンは、その圧倒的な「静粛性(静かさ)」で市場を席巻した。
木造住宅が密集し、壁が薄い日本の住宅事情において、隣家への騒音を気にせずに使える東芝のエアコンは画期的であった。この技術的優位性は他社が追随するまで数年間の独走状態を生み出し、「エアコンの東芝」という確固たるブランドイメージを確立。
単なるシェア拡大だけでなく、その後の省エネ技術競争においても東芝がリードし続けるための決定的な「技術的遺産」となった。
7代目社長・玉置敬三
(たまき・けいぞう)
1972年5月~1976年6月
日本経済の舵取り役である通商産業省(旧商工省)で事務次官まで務めた後、東京芝浦電気(東芝)へ取締役として天下った。18年間の役員時代に「重電・原発担当」として活躍。カリスマ社長だった土光敏夫氏の後任に選ばれた。土光氏が東芝に残した「カリスマによる変革」を、「堅実な官界の知性」が引き継ぎ、組織を成熟期へと導く形になった。
社長の在任期間
1972年5月~1976年6月
生まれ
1907年3月2日
死去
1996年7月8日(享年89歳)
社長就任時の年齢
65歳
社長就任前の役職
東芝 副社長
前任者の処遇
土光敏夫社長は会長に
出身地
和歌山県
出身校(最終学歴)
東京帝国大学 法学部
※旧制姫路高等学校から進学
略歴
1907年3月2日:和歌山県に生まれる
1930年:商工省(後の通商産業省)に入省
1952年~1953年:通商産業事務次官
1954年:東京芝浦電気(東芝)に入社、取締役(重電・インフラ部門担当)に就任
1966年:東芝副社長
1972年5月:東芝社長に就任
1976年6月:会長に就任
1980年:相談役
社長就任前の評価
専務や副社長を務めた1960年代は、日本が原子力発電の導入を本格化させた時期だった。玉置氏は、東芝の基幹事業だった重電・電力分野のトップとして、官界で培った産業行政への洞察力を活かした。重電・電機部門に関する豊富な知識は、民間企業においても役立ったようだ。複雑な利害をまとめ上げる調整力と、国際的な舞台での交渉力を発揮したと言われる。
社長時代の主な取り組み・実績
コンピューター投資
玉置時代、東芝は単なる「重電の巨人」からの脱皮を急いでいた。1970年代前半、世界が電子・情報技術へと舵を切る中、玉置氏は大型コンピューターや産業用制御システムなど、電子部門への集中投資を継続させた。
大型海外案件
高度成長期が終わり国内市場が飽和に向かう中で、重電プラント開発やインフラ輸出といった大型海外案件を積極的に推進。
性格・人物像
前任者の土光敏夫のようなカリスマ性や豪快さで組織を引っ張るタイプではなかった。行政官としての経験からくる冷静沈着な判断力と、大組織を円滑に運営するための細やかな調整能力を最大の武器とした。派手なパフォーマンスを嫌う「静かなるリーダー」として記憶されている。
逝去・葬儀
1996年7月8日、死去。享年89歳。
東芝OB・官界関係者など多くの関係者が参列した。
9代目社長・佐波正一
(さば・しょういち)
1980年6月~1986年6月
半導体メモリー「1メガDRAM」市場で東芝を世界トップへと導いた
半導体メモリー「1メガDRAM」市場で東芝を世界トップへと導いた立役者である(部下は川西剛・半導体事業部長ら)。
半導体業界が不況に陥った1985年と86年、他の有力メーカー(日立、NEC、三菱電機、米インテルなど)が一斉に設備投資を凍結・縮小するなかで、積極投資を決断。次世代である1メガDRAM用の主力拠点(大分工場の第2クリーンルームなど)への巨額投資(約700億円規模)を断行した。
非常にリスクが高い行動だったが、これが功を奏し、世界市場で圧倒的なトップシェアを獲得した。
1987年〜1991年、1メガDRAMはパソコン向けを中心に需要が爆発的に増加すると、東芝は最大の供給メーカーとして莫大な利益を上げた。
11代目社長・青井舒一
(あおい・じょいち)
1987年7月~1992年6月
社内で発明された画期的な「NAND型フラッシュメモリー」生かせず
1987年、東芝の研究所(研究開発センター)に所属する舛岡富士雄氏(1943年生まれ)が「NAND型フラッシュメモリー」を発明(発表・特許出願)した。 後に携帯電話・スマホ、データセンター、メモリーカードで爆発的に普及することになる画期的な発明だった。 しかし、当時の青井舒一社長は、この発明を活かせなかった。 NAND型フラッシュメモリーへの予算や人員配置は非常に限定的だった。 DRAMの1M(メガ)市場で世界シェアの約50%を握り、空前の利益を上げていたこともあり、「NAND型フラッシュメモリー」をないがしろにした。 DRAM部門が数千人規模の体制だったのに対し、フラッシュメモリの開発チームはわずか数人〜十数人の「おまけ」のような扱いにとどまった。
「追い出し」に近い人事
1991年、舛岡氏は「技師長」という役職に昇進する。 これは現場の研究員を指揮する権限を持たない、いわゆる「窓際への棚上げ」人事だったと言われる。 舛岡氏にとって、部下も予算も自由に使えないこの役職は、事実上の冷遇だった。 ついに1994年、舛岡氏は「東芝にいてもこれ以上の研究はできない」と判断し、東芝を退社して東北大学の教授へと転身した。 世界を変える発明をしたにもかかわらず、東芝内部では最後まで「変わり者の研究者」という扱いを受け、十分な評価や報酬(後に訴訟に発展します)が与えられなかった。
12代目社長・佐藤文夫
(さとう・ふみお)
1992年6月~1996年6月
系列会社からトップに
東京大学卒業後の1953年、東芝の系列だった水力発電用の水車メーカー「電業社原動機製造所」に入社。2年後、東芝に吸収合併。人望と行動力でトップにまで登りつめた。
鶴見工場(横浜市)重機械部長、重電事業部重電生産管理部長などを経て、1982年取締役。1984年常務、1986年専務、1988年から副社長。
テニスのインターハイ代表
大分県出身。かつてはテニスのインターハイ代表選手を務めたスポーツマン。ライバル会社である日立製作所の金井務社長とは東大工学部の同級生。
15代目社長・西田厚聰
(にしだ・あつとし)
2005年6月~2009年6月
東芝の没落を招いた「A級戦犯」の一人。米原発大手ウエスチングハウス買収と粉飾会計をやらかした。
ウエスチングハウス(原発大手)買収の失敗
2006年、西田氏は約6,000億円(当時のレート)を投じて米原発大手ウエスチングハウス(WH)を買収した。これが後の巨額損失の源泉となった。
買収額を吊り上げ
当初、WHの買収額は2,000億〜3,000億円程度と見積もられていた。しかし、ライバルである三菱重工業との競り合いの中で、西田氏は「勝負」を優先し、相場の2倍以上の価格を提示した。
丸紅に逃げられた
この際、パートナーとして共同出資する予定だった丸紅が、価格の高騰を危惧して直前で撤退した。これにより、東芝のリスク分散シナリオが崩れ、負担が重くのしかかることになった。
米ショーに甘い条件
WH買収にあたり、東芝は米建設大手ショー・グループに20%の出資を仰いだ。しかし、この契約には「ショー側が希望すれば、東芝が持ち分を買い取る」というプットオプションが付与されていた。
経営の判断ミス
福島第一原発事故後、原発市場が冷え込む中でショー側はこの権利を行使した。東芝は経営が苦しい時期に、さらに巨額の資金で価値の低下した株式を買い取らざるを得なくなった。明らかに経営の判断ミスだ。
経産省の国策の罠
当時、経産省内で絶大な影響力を誇っていたのが、1982年入省組の今井尚哉氏、嶋田隆氏、日下部聡氏の3人である。彼らは「エネルギー安全保障」と「インフラ輸出」を掲げ、日本が世界の原子力市場を制圧する「原子力立国計画」をブチ上げた。 この壮大な「国策」を実現するための「駒」として選ばれたのが、海外展開に飢えていた西田東芝であった。
「2015年度までに23基」という誇大妄想的な計画
2008年、西田氏は経営方針説明会の場で、原子力事業について「2015年度までに世界で33基(うちWHで23基)の原子炉受注を計画している」という、極めて野心的な目標をぶち上げた。この「23基」という数字は、当時の世界の原発市場の動向を鑑みても、あまりに現実味を欠いた誇大妄想的なものであった。
粉飾決算
東芝における組織的な不適切会計(粉飾決算)は、西田氏が社長就任後に導入した「チャレンジ」という名の過剰な利益目標設定から始まった。これは単なる経営努力の範疇を超え、現場を不正へと駆り立てる装置となった。
過剰な利益目標設定「チャレンジ」の暴力
西田氏は、部下に対して論理的に不可能な数字の達成を強硬に迫った。この「チャレンジ」は必達義務として現場を追い詰め、四半期末の数日前に到底達成不可能な利益上積みを要求するトップダウンの圧力となった。これにより、組織は不正な会計処理に手を染める以外の選択肢を失っていった。特に西田氏が強い執着を見せたのが、自身の「ホームグラウンド」であるパソコン事業であった。
西田氏の「聖域」:ミスター・ダイナブックの成功体験
パソコン事業が批判を許さない「聖域」となった背景には、西田氏自身の輝かしい成功体験がある。1980年代半ば、西田氏は世界初のノートPC「T1100」の開発・販売を主導し、世界的なヒットへと導いた。この功績により、東芝はノートPC市場で世界シェアトップに君臨し、西田氏自身も「ミスター・ダイナブック」として社内で不動の地位を築いた。社長就任後、パソコン事業は自身の経営手腕の象徴であり、アイデンティティそのものとなった。そのため、市場環境が悪化しても同事業の赤字転落はプライドにかけて許容しがたい「不都合な真実」となったのである。
パソコン事業における「バイセル取引」と利益の先食い
この「聖域」の数字を繕うために悪用されたのが「バイセル取引」である。製造委託先に部品を転売する際、調達価格に多額の利益を上乗せして販売し、その差額を一時的な利益として計上する手法だ。本来は次期以降の原価低減で相殺されるべき性質のものだが、期末に大量の部品を押し込むことで、実態のない利益を数千億円規模で上積みし続けた。これは明らかな「利益の先食い」であり、西田氏の成功神話を維持するための組織的隠蔽であった。
粉飾を始めた社長
2015年に発覚した第三者委員会の報告により、東芝は歴代3社長(西田氏、佐々木氏、田中氏)が関与する形で、7年間にわたり総額1,500億円を超える利益を水増ししていたことが露呈した。この負の連鎖の起点は、自らの過去の成功に固執し、現場に不可能な数字を強いた西田氏にある。後継社長たちもまた、西田氏が作り上げた「数字を粉飾してでも目標を達成する」という歪んだ組織文化を継承・拡大させていった。つまり、西田が粉飾の「始祖」であったといえる。
上場廃止の危機と名門の崩壊
一連の不正により、東芝は特設注意市場銘柄に指定され、上場廃止の危機に直面。名門企業としてのブランドは完全に失墜した。巨額の損失を穴埋めするために、虎の子の半導体事業(現キオクシア)の売却を余儀なくされ、最終的には非公開化へと繋がる解体への道を突き進むこととなった。
異色のプロフィール
西田氏は、東芝の歴代社長の中でも極めて異色の経歴を持つ。海外現地採用に近い形でのスタートという、エリート街道とは程遠い場所からトップに登り詰めた特異な存在であった。
学生時代、イラン出身の女性研究者と結婚し、イランへ
西田氏は早稲田大学政治経済学部を卒業後、東京大学大学院で政治思想史(西洋哲学)を専攻した。この哲学的な素養が、後に彼が振るう強力な論理と弁論術の基礎となった。
大学院在学中、イラン出身の女性研究者と出会い結婚。1970年に彼女を追ってイランへ渡った。学問の道を離れ、異国で生活を始めるという決断力と行動力が、その後のキャリアの原点となった。
現地法人から東芝本体への「逆輸入」入社
イランに渡った西田氏は、1973年に東芝と現地の合弁会社である「パルス・東芝」に入社した。当初は現地での通訳や交渉事に従事していたが、その卓越した交渉能力とバイタリティは、当時の東芝幹部の目に留まるほど抜きん出ていた。
1975年、31歳での「本体」入社
通常、新卒一括採用を絶対とする当時の東芝において、中途採用かつ現地採用からの転籍は極めて異例であった。1975年に東芝本社に正式に入社し直した際、西田氏はすでに31歳。同期よりも大幅に遅れたスタートという「アウトサイダー」としての飢餓感が、後の強引なまでの成果主義と上昇志向へと繋がっていった。
パソコン事業での台頭
本社入社後、西田氏はパソコン事業においてその真価を発揮した。1980年代半ば、世界初のノートPC「T1100」の欧州展開を主導。社内の反対を押し切って爆発的なヒットを記録させ、東芝をノートPC市場の覇者に押し上げた。「ミスター・ダイナブック」としての成功は、彼を東芝の中興の祖へと押し上げ、文系出身者として社長の座を射止める決定打となった。
| 開催年 | 主催 | テーマ・コンセプト | 主な展示・技術内容 | 来場者数・会場 | 備考・特徴 |
|---|---|---|---|---|---|
| 2006年 (第5回) |
東芝機械 | 「精密と成形」 | 金型加工機、成形機、ロボットシステム。 自動車・二輪業界向けダイカストマシン「ED3000W」など。 |
約3,300人 沼津本社工場 |
課題解決型展示を標榜。精密加工分野を拡充。 |
| 2007年 (第6回) |
東芝機械 | 「“ものづくり”が原点の頼れるビジネスパートナー」 | 電動式超高速射出成形機、省エネ型ダイカストマシン、微細転写装置、産業用ロボットなど。 | 約4,500人 沼津本社工場 |
技能五輪ブースを設置。 関連受注60億円を見込む。 |
| 2008年 (特別回) |
東芝ソリューション(株) | 「ソリューションの原点に―確かな技術、響きあうソリューション」 | 社会・産業インフラ向けITソリューション。 金融・保険業務支援、RFID文書管理、本人認証など。 秋山豊寛氏が基調講演。 |
多数来場 ホテルパシフィック東京(港区) |
「協創(Collaborative Innovation)」を掲げ、 東芝グループ全体のIT技術を披露。 |
| 2013年 (第?回) |
東芝機械 | 「“先進と拡張”最適ソリューションの提供」 | スマートフォンカバー一貫成形システム、 遠隔ロボット、省エネ型射出成形機。 |
約4,000人 沼津・御殿場両工場 |
一般見学可。 特別セミナーも併催。 |
| 2016年 (第14回) |
東芝機械 | 「“確かな未来”への挑戦~最先端技術で次世代モノづくりに貢献~」 | 自動車・航空・光学向け精密加工機、 IoT技術、金属3D積層造形装置など。 |
沼津・御殿場両工場 | 5軸加工機「UVM-700E(5AD)」初披露。 |
| 2017年 (第15回) |
東芝機械 | 「“確かな未来”への挑戦~IoTでつながるモノづくり」 | 2材射出+自動組立システム、 新立型MC「UVM-450C(H)」、スカラロボ「THE400」。 |
約6,000人 沼津・御殿場両工場 |
御殿場工場テクニカルセンター初公開。 工具交換時間60%短縮技術。 |
| 2018年 (第16回) |
東芝機械 | 「変革する次世代自動車と先端技術産業への取り組み」 | EV・自動運転対応射出成形機、 押出成形機、ダイカストマシン、IoT対応PLC。 |
沼津・御殿場両工場 | EV・IoT分野に焦点。 「総合機械メーカーの強み」を体現。 |